プロローグ
おはようございます、MCの白石純子です
本日のテーマは、邦楽セレクション
“ 赤い鳥特集 ”
メンバー各人がボーカルを担当することができ、美しいハーモニーが魅力的なグループアーティスト 赤い鳥 の登場です!
本文中に青字や薄く下線があり、カーソルをその文字に合わせて、指マークに変わればリンクに飛ぶことができます
そしたら、その意味を教えてくれるからね~ (* ˃ ᵕ ˂ )b
皆さん、おはようございます
アシスタントの真行寺(しんぎょうじ)です
それでは、さっそくわたくしの方からお送りするナンバーをご紹介
させて頂きます
ご紹介するナンバーは、「竹田の子守歌」「翼をください」の2曲をチョイスしました!
記事はUP後も、編集(随時)したり、音楽はセレクションを
増やしたり(稀に)もしているから、見直しても面白いかもね !!
では、皆さん 楽しんでってくださいね (✿╹◡╹)b
ワープ!!. . . . ...............................................
き、きえるぅぅぅ。。。( ̄□ ̄ *)( ̄□:;.:... ( ̄:;..::;.:. :::;... ... .. . . . . . . .
赤い鳥
赤い鳥(あかいとり)は、日本のフォークグループ
後藤悦治郎(ギター)
平山泰代(ピアノ、1974年2月に後藤と結婚)
山本俊彦(ギター)
山本潤子(ボーカル・ギター、1973年4月に山本と結婚 旧姓、新居)
大川茂(ベース、1969年6月加入)
後期
大村憲司(ギター、1972年2月から1973年4月)
村上秀一(ドラム、1972年6月から1973年4月、村上“ポンタ”秀一)
渡辺俊幸(ドラム・キーボード、1973年4月から)
グループ名は、鈴木三重吉主宰の児童雑誌『赤い鳥』からとったそうです
各地の子守唄・伝承歌などを美しいコーラスワークで聴かせる傍ら、トニー・マコーレイ(Tony Macaulay)などの曲提供により、アルバムを発表するなどソフトロック的な音楽性も兼ね備えていました
そのため関西地区で結成されたグループでありますが、いわゆる関西フォークとは一線を画していました
結成当時は、後藤と平山の二人が日本民謡を独自のやり方で取り上げたデュエットでした
山本と新居は、谷村新司らと結成したコーラスグループ「ヒルビリー・シンガーズ」のメンバーでしたが、アマチュアコンサートで一緒になったとき後藤に音楽性を買われて赤い鳥に加入しました
いったん加入した松田が脱退したのち大川が参加し、ここに五人編成の「赤い鳥」が再編されました
後期には、ウッドストックの影響で、ロック色の強い音作りをしましたが、基本的には赤い鳥は、民謡とフィフス・ディメンション(アメリカのコーラス・グループ)のようなコーラスものの両方をレパートリーにしました
1969年4月に兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館(通称「赤い屋根の家」)でコンサートを開催
1969年11月、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに関西・四国地区代表として出場
「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑えてグランプリを獲得
このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)、チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫はオフコースに、小田和正は赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったといいます
村井邦彦(アルファミュージック)のプロデュースにより、1970年4月に渡欧しロンドンでレコーディングを行ないました
同年6月に日本コロムビアからシングル『人生/赤い花白い花』」、アルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』でメジャーデビュー
同年9月、東芝EMIレコード/Liberty レーベルに移籍、同年10月に「合歓ポピュラーフェスティバル'70」に出場し「翼をください」で新人奨励賞を受賞
1971年1月から1972年6月まで、竹田一彦カルテットがバックバンドとして協力
1971年2月発売のシングル『竹田の子守唄/翼をください』が発売3年で100万枚を突破するヒットになりました
1972年7月、渡米しレコーディング
音楽上の路線対立から1974年9月に解散
後藤・平山夫妻は「紙ふうせん」、山本夫妻と大川は「ハイ・ファイ・セット」、渡辺は「ハミング・バード」を結成
竹田の子守歌
Released 1971年(昭和46年)2月5日「竹田の子守歌」
京都府の民謡、およびそれを基にしたポピュラー音楽の歌曲
赤い鳥をはじめ、日本のフォーク、ロック歌手たちによって数多く演奏されています
複数の被差別部落に伝わる子供の労働歌であり、題名に「子守唄」とあるが正しくは「守り子唄」であり、子供を寝かしつけるのではなく、部落出身で子守として奉公に出され、学校へ通ったり遊んだりする余裕のない10歳前後の少女の心情が唄われています
明治時代中期の発祥とされるが、題名にある京都市伏見区竹田地区の住民が実際に唄っていたのは、昭和初期に10代だった世代まで
翼をください
Released 1971年2月5日「翼をください」はフォークグループの赤い鳥が1971年2月5日にシングル『竹田の子守唄』のB面曲として発表した
もともとは、1970年に三重県志摩郡浜島町(現:志摩市)の「合歓の郷」で開かれたプロ作曲家コンテスト「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル'70」のための曲として作られ、赤い鳥メンバーがこの曲を提供されたのはレコーディングの2時間前だったそうです
「翼を下さい」と表記されることもあります
なお、厳密な意味で「ください」を「下さい」と漢字表記した場合は、1972年に制作され、赤い鳥としてもシングル(1972年11月20日発売の「翼を下さい/月曜はブルーな日」のA面曲)として発売した英語バージョン(英語曲名は「I WOULD GIVE YOU ANYTHING」)を指します
1973年9月25日にはやまがたすみこが『あの日のことは やまがたすみこフォークアルバム第二集』の1曲としてカバーし、澄んだのびやかな歌声でこの曲のファンを増やしました
1976年以後、音楽教科書にもたびたび掲載されています
教科書出版社の教育芸術社の橋本祥路が教科書に収録して以来、合唱曲として有名となり、1970年代後半から学校教育の場でもよく採り上げられるようになっていました
そのため、日本国内では老若男女誰もが歌える愛唱歌です
1991年1月23日に川村かおりがカバーして発売、約28万枚のヒットとなりました
1997年11月12日には、元赤い鳥の山本潤子(事実上セルフカバー)によるシングルが発売され、1998年1月時点で初回出荷枚数の10倍、2万5000枚(東芝EMI発表)を売り上げました
山本版は1998年1月開始のTBSドラマ『花王 愛の劇場 風になりたい』の主題歌に起用
元赤い鳥のメンバーによるカバーには、他に紙ふうせん(後藤悦治郎・平山泰代)らによるユニット「TSU-BA-SA」が1991年発売のアルバム『ANGEL ON THE ROOF』で(曲名は「翼をください'90s」)、「紙ふうせん&フレンズ」が1998年4月1日にシングルで発売したものがあります
FIFAワールドカップフランス大会予選のUAE戦(1997年10月26日開催)からサッカー日本代表チームの応援歌として歌われるようになりました
1998年にはこれに便乗する形で小宮悦子、川平慈英、山本シュウらによって結成された企画ユニット「ザ・つばさーず」が「翼をください」をレコーディングし、同年3月発売のミニアルバム『サッカー天国』に収録しました
1998年の長野オリンピックでは山本潤子版が、2021年の2020年東京オリンピック開会式ではスーザン・ボイルの英語詞版が流れました
2007年には「日本の歌百選」に選出
日本音楽著作権協会(JASRAC)の著作権使用料分配額(国内作品)ランキングでは、2012年度と、2015年度の年間9位を獲得しました